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名古屋市緑区の加藤厚税理士事務所 相続税 贈与税 相続対策 中京大学非常勤講師

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瀬古利彦

過去に輝かしい成績を残しても、なぜかオリンピックだけは縁がなかった。そんなアスリートも多くいます。そんな中で一番思い出されるのは、陸上競技のマラソンランナーとして輝かしい実績を持っていながら、瀬古利彦はオリンピックだけは縁がなかった。

 1980年モスクワ五輪は23歳という若さで代表に選ばれながら、ボイコットによって出場を逃した。宗兄弟と共に、参加していれば金銀銅独占確実といわれていました。翌81年ボストンマラソン優勝。83年東京国際、福岡国際優勝。あのタンザニナのイカンガーとのラスト100Mのデットヒートを思い出される人も多いでしょう。着実に成長した瀬古は1984年ロサンゼルス五輪に出場権を獲得しました。
 
 しかし、瀬古のまじめさが裏目に出ました。あの有名な中村コーチとの二人三脚。夏のマラソンはもちろん初めての挑戦。体力アップを最優先に走り込みに没頭した。しかも、真夏の東京で毎日数十キロと。更に暑さ対策でグアムにまで行った。当然のことながら無理を強いられた体は次第にやつれていった。そして血尿。スタート前にすでに勝負はついていたのである。14位、完走が精いっぱいだった。 日本人は宗猛の4位入賞が最高だった。
 
 雪辱を期しての次の1988年ソウルは選考レースの福岡国際をケガで欠場。中山の『はってでも出て来い』も有名になりましたね。何せ自己記録2時間10分を切った日本人ランナーが8人もいました。最強の男子マラソン陣である。そんな中“救済措置”となった3月のびわ湖毎日で2時間12分の平凡なタイムながら優勝し、何とか出場にこぎつけた。しかし、ランナーとしても峠を越えた32歳にもう全盛時の力はなかった。日本人最高位は中山の4位、そして瀬古は9位。その後引退を決意して、シューズを脱いだ。 師匠である中村コーチも亡くなっていた。
 
 瀬古の戦績、マラソン出場15回中優勝10回。1978年から80年まで福岡国際3連覇。まだ怖いものを知らずの23歳の若者が80年モスクワ大会に出場していたなら、不遇のオリンピック人生も大きく変わっていただろうと私は思うのである。四日市工高時代のインターハイ優勝、早稲田大学時代にマラソン優勝、そしてヱスビー食品での大活躍。マラソンを含むロード、トラックと日本記録を樹立。もう、あんなアスリートは出てこないでしょうね。

悲運のランナー、瀬古利彦

 コーチとしての瀬古利彦に期待した


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